インドに関する本を読むのはこれが初めてである。
「海外文学が好き」とは言うものの、主に選ぶのはイギリス文学とドイツ文学、ロシア文学あたりだ。イギリス文学が最も多い。……と思ったが、インドに関するお話ではあるが、著者のアントニオ・タブッキはイタリアの人らしい。ということは、『インド夜想曲』はイタリア文学じゃないか!
しかし本棚を漁ってみたところ、イタリア文学も未読だった。私にとって初イタリア文学、初インド文学となった『インド夜想曲』は、物語が物語の中で収束する面白い話だった。とくに最後のシーンのどんでん返しの器用さには、息を呑む。
この本を読んだ後は一人でフラッと旅行に出たくなる。そんな魅力に溢れた一冊だ。
『インド夜想曲』を読む
「これでやっと面白くなるわ」
「残念だがそうはいかない。彼女たちは枠外だから。物語そのものの中にはいない」
「ひどいわ」とクリスティーヌは言った。
「それならこの本にとっては、すべてが枠外じゃない。枠の中にあるものを言ってちょうだい」
主人公の旅は、運転手が主人公の宿泊先とは逆方向へ車を走らせ、無理にでも降りたところから始まる。旅の幕開けは散々なものだった。町は写真で見たよりも酷く、異臭を放っていたり、今日に限って料理が全部終わっていたり。
この主人公には、目的があった。「シャヴィエル」という名前の友人を探すことだ。娼婦や医者、占い師の兄と英語が達者な弟の兄弟など様々な人物と出会い、会話を通して、シャヴィエルの現在を追う話だ。
この物語のすばらしいところは、物語が物語の内に収束することだ。最後のどんでん返しの秀逸さに息を吞む。結末を以て、エピソードすべての点と点が線となり、味を感じられる。
文章が軽快で読みやすく、2時間ほどで読破。読み進めるうち、なぜかパウロ・コエーリョの『アルケミスト』を思い出した。
次の旅行がもっと実質的になりそうだ
写真というものは被写体を四角い枠のなかに閉じ込めてしまう
思い出は僕自身だけのものだから、描写するわけにはいかなかった
『インド夜想曲』のなかで記憶に残っているのが、写真と思い出に関する話だ。主人公は「檻の町」について写真で知っていたが、現地に着くと想像以上の異臭や荒廃っぷりに驚いてしまう。それについて表現したのが「写真というものは被写体を四角い枠のなかに閉じ込めてしまう」という文章だ。
しかしその一方で、シャヴィエルについて説明しようにも、思い出は僕自身だけのもので、それを説明する術がないことも嘆いていた。
写真とは、思い出を共有する手段である。が、その一方で、旅行の思い出を形式的にしてしまう。時間が経つほどに、本当の経験からかけ離れた想像・架空の思い出へと記憶を導いてしまう。
匂いや音、手触り、会話、感情などの情報は何もかも残らないのだ。
旅行へ行くとき、美しい写真を撮ることばかりに気が向いてないだろうか。ちゃんとその土地の匂いや音、言葉、味、触感、挨拶、会話、感情の移ろいに注目して、この体全部で旅行を楽しめているだろうか。ファインダー越しに世界を見つめるだけで、旅を満喫した気になっていないだろうか。
カメラが趣味の私は、正直ドキっとした。そういえば、ファインダーを覗き込むばかりで、視覚以外の体験をおざなりにしていたような気がする。次の旅行は滋賀県を予定している。その時は、五感全部で滋賀という世界を感じられるように意識してみよう。
まとめ
「盲目の知識は不毛の土壌しか作らない」「記憶はおそるべき贋作者だ。その気がなくても、時間の汚染は避けられない」など、『インド夜想曲』には鋭い視点の言葉が頻出する。
どんでん返しの緻密さだけでなく、核心的な美しい指摘にゾクゾクする楽しさもある。そんな旅の本だった。そういえば私はまだ、インドについて全く知らないな。知っているのは信仰と階級社会に関する表面な知識と、この本だけだ。次はインドの本を読んでみようかな。