海外古典文学好きでヘミングウェイの名と『老人と海』のタイトルを一度たりとも聞いたことのない人はいないだろう。
さて、私が『老人と海』を知ったのはいつだっただろうか。
確か大学の講義中だったはずだ。そうだそうだ、英米文学の講義中だった。
「『老人と海』なんかね、じじいが魚釣ってるだけの話なんだけど結構面白い」と、ロッチの中岡さん似の教授が言っていたのを覚えている。今思い返すとそんなに中岡さんには似ていないのだが、ロッチの中岡が言うなら面白いんだろうなぁと思いつつ、ずっと未読のままだった。
ようやっと重い腰を上げて読み始めた私に、ヘミングウェイはものの見事にルアーを引っかけ、彼の世界へと引き揚げてしまった!
潮の香りが充満する穏やかな海と、立っていられない程の荒波の海のような感動が交互にやってくる『老人と海』は、確かに結構面白い本だった。
『老人と海』を読む
全身枯れていないところなどないのだが、目だけは別だった。老人の目は海と同じ色をしていた。生き生きとしていて、まだ挫けてはいなかった。
『老人と海』のストーリーは、いたってシンプルだ。
漁師の老人が海に出、大物の魚を釣り上げる話だ。それ以上でもそれ以下でもない。
老人は48日間も獲物が獲れていなかった。最初の40日間は老人が漁を教えたという少年が一緒にいた。しかし少年の両親は、不運な老人漁師と息子が一緒にいることを嫌がって、41日目以降は一人になった。
老人が大切にしていたのは、正確な手順を守り続けることだ。海に敬意を払い、漁の正しいとされている手法に従うこと。
そして85日も不漁が続いた後、ついに老人は大物と対峙する!
忍耐とは時に残酷だ
この物語からは、人生や仕事への向き合い方について、色々なことを学べる。
忍耐すること。誠意を忘れないこと。欲望に眩んで正解の手順を変えるべきでないこと。希望を失わないこと。
しかしもっとも私の心を殴ったのは、忍耐や、忍耐の先にある成功は残酷だということだ。
魚を釣ったとして、数時間、数日もすれば身は喰われ、骨だけになる。
どれだけ頑張ったとしても、骨になるのだ。
それは私たちの人生にも起こり得ることだ。
例えば、ブラック上司にくじけず仕事を頑張っていたのに、会社が倒産するとか。自分の成果を横取りされるとか。
学生時代のすべてを捧げた友人の心が私からある時突然離れ、孤独になるとか。綺麗だったはずの思い出が、赤い絵の具で塗りつぶしたいほどグロテスクなものに変貌するとか。一時の充足や幸福を享受したとして、いつかはそれも過去の栄光になる。骨になる。
私がこのタイミングで『老人と海』を読んだのは、漁師を魅了する大海のように、何か私だけに作用する魔力が満ちており惹かれていたからなのかも。
ちょうど、人間関係で悩んでいた。けど、もうそれもやめられそう。なぜなら今人間関係で悩んだところで、きっとその充足や悩みも幸福もすべて骨になると思えたからだ。それは諦めではない。『老人と海』が私に教えてくれたのは、魚一匹に執着をせず、自分が自分であることの価値を大切にすることなのだ。漁師が漁師であるように。
まとめ
忍耐とは残酷。『老人と海』を読んでいるとき、私は最近見たアニメ『呪術廻戦』の夏油傑というキャラクターを思い出していた。
たぶん、あの魚を殺したのは罪だったのだ。たとえ自分が生きるため、大勢の人間を食わせるためにやったとしても、罪だったんだろうよ。となると、何をやっても罪だということになる。もうやめよう、罪のことを考えるのは。いまさら手遅れだし、この世には罪のことを考えるのを生業にしている連中もいる。そういう連中に任せよう。おまえはそもそもが、漁師になるために生まれたんだ、魚が魚になるために生まれたようにな。
大物を捕まえた幸福は長く続かない。
幸福を盗み食いしようと群がる者共を相手した老人の考えていたことが、過去編と映画の夏油に通ずるものがあったのだ。
「生き方は決めた。後は自分にできることを精一杯するさ」と言って去った夏油。その後の百鬼夜行、そして最期は。
ああ、忍耐とは人の美しき矜持であり、また残酷すぎるものだなと思う。