創作活動の表現方法(小説・マンガ・1枚絵・動画制作など)のいずれにかかわらず、『創作活動』という趣味は複数の工程を持っている。
小説で言えばプロット作成、本分執筆、推敲作業、ページレイアウト、表紙デザイン、といったように。
この記事を書いている人(私)は、それらの工程のなかでもとくにプロット制作と本文執筆が好きで、反対に、凝り性な性格ゆえにいつまで経っても終わらないため推敲作業がちょびっと億劫である。
そこで以前、ツイッターで「推敲(校正)外注したいなぁ……しょぼしょぼ」と呟いたんだが、当時謎に私に粘着していた荒らしだかアンチだかは、めざとくその呟きに反応した。
「趣味なんだから嫌々やるくらいなら辞めればいいのに」と。
いや、「嫌々やっている」とは一言も書いていないのだけれど、一体どこの何を読んだんだ!? とは正直なったのですが……それはさておき。
せっかくなので「趣味なんだから嫌々やるくらいならやめればいいのに」というアンチ様のめざとい意見を、今日の話題にさせてもらうことにする。
私は結構こういう言葉や概念的なものごとについて考えることが好きだったりします。
で、先に結論から言ってしまうと。
「本作り」や「動画制作」のような複数工程や側面を併せ持つ大カテゴリーに対して「趣味なんだから、嫌ならやめろ」と短絡的に言うのは、根本的に間違っているのではないか。 と私は思う。
これは「カモミールティーはちょっと苦手なんだよね」と言う紅茶マニア(大カテゴリー)に対して「嫌なら紅茶(大カテゴリー)飲むのやめろ」と言っているようなものだと思う。
私はね。私は、だよ。個人の意見です。
ということで、もうちょっと深く考えてみようかな。
『創作活動』という大カテゴリーはさまざまな工程と側面を持つ
まず前提として『創作活動』は大カテゴリーだ。
この話題を考えるためには、「お絵描き」という大カテゴリーのなかに「下描き」などのさまざまな小カテゴリーが存在している──という意識が必要になる。
絵を描くとき、多くの絵描きはさまざまな工程を踏む。
まずは構想。そしてアタリ、ラフ。次に下描きをして、ペン入れをする。それから色塗りをして、加工してってやって、ようやく完成する。
このなかには資料(レファレンス)集めや、好みの造形を取れるまで何度も何度も線を引き直すなどの手間暇も含まれる。
小説執筆、いわゆる字書きも、プロット制作、本文執筆、推敲、誤字脱字チェックなどをする。人によっては一度テンプレートに流し込んだ際に細かな見た目のバランスを調整したり、ルビ・傍点を振ることもある。そして執筆時には絵描き同様に資料を集めたり、辞書を引いたりするなどの手間暇がある。
動画制作でもそうだ。
まずは構想を練り、プロットを作る。必要であれば動コンテを作り、それを元に文字や演出効果、カメラ制御などを加えていく。それらのアレンジのためには、機能の使い方を学んだり検索したりするなどの手間暇がかかる。
そして「同人誌を作ること」そのものも大カテゴリーだ。
〆切を決め、印刷所を決め、本文を制作し、表紙デザインを組み、不備がないことを確認してようやく入稿する。
本当に本当に、さまざまな数え切れない工程を持つのが、創作活動という趣味の醍醐味であり、チョット大変なところでもある。
『カモミールティーが嫌いなら紅茶飲むのやめろ』って言ってるようなもの
冒頭でも言ったんだけど、カテゴリーの広さとして、
「推敲が嫌なら同人活動やめろ」って言うのは、
「カモミールティーが嫌いなら紅茶飲み自体やめちまえ」と言ってるのと同じようなものだ。
あるいは「純文学が大好きだけど、太宰文学だけは好きになれないなぁ」と言う読書家に対して、
「太宰が嫌いなら読書家なんてやめちまえ」って言っているようなものかもしれない。
(※私は太宰治がいちばん好きです。太宰先生すみません。)
またあるいは「通学で電車乗るのめっちゃしんどい」と言う大学生に対して、
「嫌なら大学やめちまえ」って言っているようなものとも少し近いかもしれない。
いや、大学の例はちょっと違うかー。
「いや、そもそも、趣味なんだから強制されてるわけじゃないじゃん」って言われるかもしれないけど
それは確かにごもっとも。
確かに、上で出した例は、どれも苦手なものだけを避けられる、というのは一理あるんだよね。
通勤手段は電車以外にもあるし、カモミールティーが嫌いなら飲まなければいいし、太宰が嫌いなら、太宰文学を読まなければいい。
「読書家をやめちまえ」と言うのは極端すぎてわけがわからないが、
「太宰を読まなければいいのでは?」と言うなら、
「それは、そう」となる。
だが、上の例と違い、『創作活動』というもの、そのものは、もっと活動的で能動的なものだ。 受動的なものではなく。
『創作活動』は、何かを生み出す行為だ。
だから、「生み出す」という大カテゴリーのなかにあるプロット制作・本文執筆・推敲・表紙デザイン・入稿などの各工程が嫌でも避けられなかったり、好き嫌いの波があったり、「これはニガテだけどやってる」みたいなものがあったりするのは正直仕方がない。
仕方がないし、それを含めて楽しんでいるところはあると思う。
別に目くじらたてることじゃない。
それがまあ「ラフも下描きもペン入れも色塗りも加工も本作りも嫌いだしそもそも同人活動自体も嫌い☆」って言っている人に対してならば「嫌ならやめなよ」と思っても仕方ないのだろうけど。
まてよ、これは『趣味でやる語学学習』を例に挙げたほうがいい気がする
これ書いていてふと思ったんだけど、趣味でやる語学学習を例に挙げたほうがわかりやすいかもしれない。
私はちょうど趣味で英会話をやっているので、それを例に挙げよう。
実は英会話歴は絵描き歴・字書き歴よりも遙かに長く、19年生だ。
そんな私が英会話を続けているのには3つ理由がある。
- 仕事の選択肢の幅が広がるから
- 単純に楽しいから
- 外国の方と英語で喋ったり、好きな海外文学やミュージカルを原題で読みたいから
私の英会話には、単純な趣味ってだけでなくて、自己表現の機会であったり、技術力の向上(自分の価値の向上)なんかも含まれているんだね。
だからけっこう、上位クラスに挑戦したり、TOEICを受けてみたり、ホームステイに行ったりもする。
英会話を続けてくる上で、何度もミステイクを怒られたり、ケアレスミスを繰り返して悔しかったり、うまく話せなくて落ち込んだりもした。
でも、「英語をやっていてよかった!!」って思える瞬間は嫌なこと以上に遥かに多くあって、「嫌だからやめる」なんて考えなかった。
「嫌なこともあるけど、それ以上に得られる楽しさがある」
「嫌なところもひっくるめて、英語が好き!」
みたいな。
この感情こそ同人活動や創作活動にも共通するんじゃないだろうか。
「推敲は時間がかかる……しんどい……でも、いちばん良い状態で投稿したい」
「プロット作成なんてしたくねぇ……でも、やったほうが良い物が作れるってわかっているんだなぁこれが……」
そういった「ちょっとめんどいこと」を超えた先に「ちょっとめんどいことやってよかった」と思える幸福感とか達成感があるんだよね。
案外、先に挙げた紅茶も読書の例も全部同じかもしれない。
「買った紅茶が苦手な味だった……けど、それも含めて紅茶を買ったり淹れたりすることが好き」
「買った本がイマイチ自分に合わなかった……けど、それも含めて本を読むことが好き」
「電車通学あほしんどい……けど、この大学に入れてよかった」
みたいなね。うんうん一緒だな。
なんなら人間関係だってそうだよね。
「友だちの○○ちゃんの穏やかなところが好きなんだけど、××な発言はちょっとモヤモヤしちゃったな。でも友だちやめるわけじゃないしそれも個性だし、それを含めてその子のことはずっと好き」
みたいなのは往々にしてあるよ。
だからやっぱり「嫌ならやめちまえ」って外野が言うのは、多くの場合で間違っているんじゃないかと私は思うなぁ……
『創作活動』という大カテゴリーのなかにニガテな工程があってもいい
『創作活動』という大カテゴリーのなかに「推敲がチョットめんどくさい」や「ペン入れがニガテ」などの「ニガテ」や「チョットめんどい」があってもいい。
それも含めて『創作活動』という趣味なのだから。
それを呟いたっていいよ。
人間だもの、ぐずぐずしたい時だってあるもの。
ガス抜きツイートを咎められる理由も、相手が咎める権利もない。
と言うと、「荒らしもどう呟こうか自由じゃね?」ってなるかもしれんが、自由であっていいのはあくまで他人を傷つけない範囲だからね……。
荒らしは荒らされた人も、荒らされた人のファンも良い気分はしない。
「嫌ならやめろし」と思うのは個人の自由だけど、それを直接傷つける意図を持って突きつけるのはやめようね。
いやそもそも私の場合、「嫌だ」「嫌々やってる」とは一言も言ってないんだけどね(根に持ってる)。ツイート自体は「推敲外注したい」なのよ。校正をビジネスにしている人って意外といるしね。ココナラでけっこう見つける。
それに多分、『創作活動』を心の底から楽しんでいる人は、「ペン入れがニガテなんだよね」のように言っても、目くじらたてて批判してくることはないと思うんだ。
案外「あ、私も!」とか「そうなんだ。私はペン入れ得意なんだけど色塗りがニガテでさ~」って言ってくれたりする。実際そう。
そんなんだから、趣味に「嫌々やるならやめろ」って言ってくる人のことはあまり気にしなくてもいいと思う──というのが今日の結論です。
以上。
おしまい。
ご静聴ありがとうございました。